17日
もう12月も半ばを過ぎた。
一年を振り返って見ると、今年の一番大きな出来事はオヤジが他界したことだろう。
晩酌タイムの2月のところでTV番組”アド街ック天国”の取材の事を書いたが
その取材の日にオヤジは息をひきとった。
11月に入院して「あと3ヶ月」と言われていたが、ホントに3ヶ月で逝ってしまった。
破天荒な生き方を貫いたオヤジ、家族の中では困った存在で
ボクはオヤジのことが”嫌い”だった。
オヤジと再会したのは、小学校の一年生の時。
弟が産まれる前に家族の前から姿をくらませたのは、ボクが2歳を少し過ぎたときだったから
4年の間オヤジは行方不明だったことになる。
再会したときのことをボクは良く覚えている。
岩場の続く海岸だった。
母は、もう一度家族で暮らすことになる事を喜んでいるようだった。
4年間のオヤジの暮らしは、まだ謎のままだけど
ギャンブルと酒が大好きで、仕事が嫌いだった親父のこと
どんな暮らしだったかは、容易に想像が付く。
小学校の高学年の時から「こんな親父なら一緒に住みたくない」と強く思うようになっていた。
丁度”家が嫌になる年頃”だから、どこの家庭でも似たような事は有るのだろうけれど
暴力や貧困が未発達な心に深い傷を付けていった。

中学生のボクは、ほとんどオヤジとは口も聞かない仲になっていた。
ボクの兄弟も似たようなもので、三男のボクより7つ上の長男は、もっとオヤジと対立していて
いつでもボクは兄の味方だった。
二十歳を前に家を出たボクは、オヤジとの溝を埋めないまま歳を重ねていった。
結婚式の日、オヤジは目に涙を一杯に溜、人目をはばからず泣いていた。
相変わらず酒浸りの生活で、ろくに飯も食わないオヤジはいつでも干からびていた。
次男が死んだとき、オヤジは棺から離れようとはしなかった。
ボクとオヤジは、全く会話を交わすことが無くなっていた。

オヤジが入院して、看護士の方に暴力をふって、追い出されたと電話が有ったのは昨年の11月の事だった。
オヤジの不条理さをあまり受けてこなかった弟は、いつもオヤジの面倒をよく見ていたし
ボク以外の兄弟は、オヤジに小遣いをあげていたり良い家族を取り戻していたように見えた。
12月と1月の休みのほとんどをオヤジの見舞いに費やした。
母の願いでもあったし、弟も「もっとオヤジの面倒を見ろよ」と言いたげだった。
病院に行くと「あら、おじいちゃんのご自慢、箱根の息子さん?」と言われた。
病室にふたりっきりだと、ボクは中学生のままだった。
一言も会話をしないで面会時間は過ぎていった。
痰が絡み苦しそうなオヤジを見ていても、ボクには何も出来なかった。
「何か、欲しいのはない?」
「新聞・・・」
ボクは黙って病室を出て、幾つかの新聞を買って又無言が続く。
長男と見舞いに行ったとき、彼は「今日は調子良さそうだね」と言って
用意したタッパから苺を出して、器用にスプーンで潰してオヤジの口に運んでいた。
オヤジはベットの上で小さくなっていたし、もう頬はこけ皮だけになっていたようだった。
それでも苺を口に入れると目をギュウと瞑り、ありったけの力で咬んでいた。

冬休み、家族を連れて最後の面会に行った。
オヤジは、息子と娘を見て静かに泣いていた。
もう、覚悟している様子だった。
葬式の日、弟は酷く落ち込んでいた。
看病の疲れも有ったのだろう。
長男と母は、これまでの辛かった思い出を語り始めた。
一冊のスクラップブックを弟が持ってきた。
ボクのことや今までやったお店の記事が紹介された物を切り取って仕舞ってあった。

次男の墓参りのついでに、供物の酒を飲み歩いていたオヤジ。
競馬でスッテンテンになって、千葉から八王子まで三日かけて歩いたオヤジ。
ボクは一度もオヤジと杯を交わしたことが無かったけど、今夜はオヤジを思い出して晩酌しています。