4月3日
幾重にも巻かれた針金が痛々しかった。子犬は未だ生後3ヶ月といったところだろうか。
男女を問わず大人が近づくと怯えて逃げるので、僕らは容易に近づく事は出来なかった。
夏休みということで周辺の別荘は子供達の声で賑やかだった。昭和から平成になった平成元年
8月の事だった。僕のレストランはオープンから3ヶ月が経ち、初めての夏を迎えていた。
店は連日別荘族で満席状態。予約客をこなすのが精一杯で、僕には気持ちの余裕が無かった。
店の裏の池周辺には子供達が遊び、あの子犬も楽しそうに子供達とはしゃいでいる。
「そうか、飼い主が見つかったんだ」と安心していた。
夏休みも終わろうとしていたある日、子犬と遊んでいた兄妹が泣きながら店の前を歩いていた。
「どうしたんだい?」と訊くと、明日東京に帰るらしい。子犬も連れて行きたいが
母親の猛反対で、別荘の管理事務所に救いを求めたら保健所行きを示唆されたようだ。
「おじさん、この犬を飼って・・・」小さな兄妹は目に一杯の涙を溜めて「お願い・・・・」訴えて来た。
僕はそれほど犬が好きじゃないし、店のこともあったので「おじさんは、レストランをやっているから
飼えないんだよ」と告げると、上の男の子は大声で泣き出し、下の女の子は子犬を一生懸命抱きしめていた。
「じゃあ、3日間この子犬を飼ってみるから、もしいい子だったらおじさんが飼ってあげる」
そのときは、何とかこの子達を安心させてあげたいと言う気持ちでこんな事を言ってしまった。
池の周辺にはワレモコウが咲き、赤トンボが飛び回っていた夏の終わりに”ミケ”は我が家の家族になった。
最初に断っておくが、こんな事を書くとミケが死んだのかと思うでしょう?大丈夫、元気にしていますから。(笑)
耳は垂れ、足は太く、白い毛に茶や黒の混ざった模様が数カ所あり、いかにも雑種です。と言った感じの雄だった。
子供達と遊んで大人への恐怖心も薄れたのか、僕が抱いても怖がる様子は無かった。名前は未だ無いらしいが”ちび”と
呼ばれ、子供達は別れの言葉を掛けていた。さすがにレストランの中に入れるわけにはいかないので、雑貨を置いてある
裏のスペースに紐でつなぎ側に水を置いて様子を見ていた。
子犬はずっと寝ていた。僕が存在を忘れてしまうほどおとなしく『これなら、飼えるかな・・・・』そう思い始めていた。
隣の管理人さんは「どうだい?」と興味津々。結構な犬好きで、心配らしい。「飼ってみろや、かわいいじゃねえか」
おいおい、保健所行きを言い放った張本人が・・・。
3日間は瞬く間に経って、子供達の母親から電話が入った。「飼うことにしました。来荘した際は是非寄ってください」
営業トークも交え電話を切った。忙しい夏が終わり、久しぶりに数日の休みを取った。当時まだ名古屋の大学に通う学生だった
今のカミさんの家に遊びに行く計画だった。犬を飼い始めて一週間、少しは慣れてきたし誰かに預けてと言うのも
出来なかったので、僕は決心して連れて行くことにした。VWビートルの助手席に乗せ、僕らは
三重県を目指した。走り初めて直ぐに子犬の様子がおかしくなった。出発前に食べさせたドックフードをもどしてしまった。
よりによってビートルのシフトノブに・・・・車を端に寄せ掃除をしている間、申し訳なさそうに僕の顔を見ていた。
いつものGSで給油をしていたら女性店員が「大きな三毛猫」と言った。見るとビートルの助手席で、子犬はうずくまって
寝ていた。「犬だよ」と僕が言うと「猫みたい」と笑っていた。カミさんの実家に着くと、辺りはもう暗くなっていた。
玄関にカミさんとお義母さんが飛び出して来て「いらっしゃい、連れて来た?」二人は交互に子犬を抱き上げ「かわいい」を
連呼していた。「ねえ、名前は?」と訊かれ僕は「・・・・ミケ」
二人、「そうか。ミケチャンだぁ〜〜〜」
名前は、あっさり決まってしまった。
生後6ヶ月辺りは、かわいい盛りだ。僕の靴をくわえては振り回し、終いにはどこかに隠してしまう。ミケはお客さんからも人気が有って
何時しか店のマスコットに成っていった。若い夫婦は散歩に連れだし、老人は話し相手にミケを指名する。車に酔ったのは
あの日だけだった。ドライブ、キャンプ何時でもミケは一緒で、一人暮らしの僕はミケと一緒にいると孤独を感じずに済んだ。
やんちゃなミケは時々脱走を謀った。行き先は大好きなシェットランドの”チャメ”の所だった。血統書付きのかわいい雌は
ミケの大のお気に入りだったが、先方は少々迷惑な関係だと思っていて、奴の初恋はかなわぬうちに終わった。
僕が店を止めて引っ越したのだった。
引っ越した先の借家は、犬を飼うことが許されていたので、二件お隣に、これまた血統書付きのシェットランドの雌がいた。
奴は完全に一目惚れで、飼い主のおおらかさも有って二頭はいつも仲良く遊ぶ間柄になった。ミケも4歳に成っていた。
ある日帰宅するとカミさんが浮かない顔をしていた。(僕らは結婚しました)気を付けていたらしいが、一瞬の隙に
交尾したらしい。直ぐに離したから大丈夫だと先方も言っていたが、その後ご懐妊の報告があった。
先方は意外にも「しょうがないジャン」とあっけらかんとしていた。流石は元ヤンキー、自身も”出来ちゃった・・”器が違うと思ったが、
産まれた子犬はどうなるのかが僕には心配だった。5匹産まれた、模様は父親似、毛足は母親似のおかしな子犬たちだったが、
幸いにもミケを知っている人たちがもらい受けてくれて、子犬たちはそれぞれの飼い主の元に巣立って行った。しばらくは我が家も
子犬を預かって面倒を見ていたが、子犬がミケにじゃれつくと、「ウ〜〜〜〜」と唸って、子犬を寄せ付けない駄目な父親だった。
犬は人間より年を取って行く速度が速い。飼い主の転勤で箱根に来たのが13歳の時だった。犬の歳に換算するといくつに成るのかは知らないが、
充分年老いた感が有った。お隣の御殿場市には自衛隊の駐屯地がいくつもあり演習も盛んだ。時折空気を裂くような衝撃と音がする。
演習は昼夜問わず行われるので住民に取っては大きな迷惑だ。ミケは花火の音に弱い、蓼科に住んでいたときも遠く離れた諏訪湖の花火の
音に怯えていた。雷の音にも恐怖を覚えるようで、その鳴き声はまさに”悲鳴”だった。どんなになだめても悲鳴は続き、僕らにはどうしようも
無かった。不幸な事に自衛隊の演習の音にミケは悲鳴を上げて行った。声がかすれても泣き叫び、僕らは同居の皆さんに申し訳ない気持ちで
箱根に転勤になった事を恨めしく思う。箱根に来て2年目、ミケの様子がおかしくなった。後ろの足が麻痺し始めている様だ。演習のストレスと
歳による衰弱のせいなのかもしれない。大好きな散歩も後ろ足を引きずり、思うように歩けなくなった。引きずった足から血が出るので
靴下を履かせたり、段ボールで靴を作ったり色々試したがこれと言った得策は得られなかった。それでも散歩の距離は縮んだが一日二回の
散歩をミケは楽しみにしていた。あれは5月の連休の終わりだった。仕事を終え冷たいビールで喉を潤していると、ミケを散歩に連れ出してくれた
同僚とミケが放し飼いにされた犬に噛まれ立てないでいると、通りがかった女の子が知らせてくれた。50メートルほど歩いたお隣の施設の
ゴールデンがミケに飛びかかったらしい。僕が駆け寄るとミケは血塗れに成っていた。散歩に連れ出してくれた同僚もかなり興奮していて
涙流し泣いていた。暗闇の中でミケの状態を確認するとお腹に大きな穴が空いて内蔵が見えていた。直ぐに抱きかかえて病院に運ぼうと持ち上げたら
、よほど痛かったのだろう、僕の耳を強く囓った。その場でカミさんに「33持ってきて」と言い、33の到着を待った。直ぐに33は来て後ろのドアを開けたら
残った力を振り絞りミケは自ら33に向かい這って行った。僕はその力強さに感動すらしていた。とにかく御殿場を目指し走りだした。
自宅で獣医に電話をするカミさんと連絡を取り合い、246号線沿いの動物病院にたどり着いた。傷は深かった、直ぐに縫合手術が施され出血が止まり
落ち着いたところで、血だらけに成った僕の耳と喧嘩を止めた同僚の手の傷の治療に深夜の救急病院に向かった。
心配で眠れないでいた子供達もようやく眠りについた頃帰宅した。翌日ゴールデンの飼い主が訪ねてきて、謝罪の言葉が有ったが「うちの子は、あの”クイール”(盲導犬)
の兄弟なのよ、あんな事する子じゃ無いのに・・・・」その言葉にどんな意味が有るのかは解らなかったが、一月前に越してきて、初めての
サービス業に余裕と愛情を失っている飼い主に僕は”駄目だし”をした。夏に成ってもミケの様態は変わらなかった。自分で動くことが出来ない。
傷口にハエがたかりウジがわいてくる。気が付くと無数のウジが身体を這い回り、治りかけた傷口からウジと血が出てくる。
その度にミケの身体からウジを取り除く作業が繰り返される。カミさんは気持ち悪さと、やらなければ成らない現実と戦って日々を過ごしていた。
それでもその年の暮れにはミケも元気を取り戻していた。相変わらず後ろ足は思うように動かないが、自力で歩ける様には成っていた。
あれから約二年、さらに年老いたミケは立ち上がる事が出来ない。それでも一日一食のご飯を楽しみにして、数十メートルの散歩を日課にしている。
耳は聞こえなくなり、今は自衛隊の演習が有っても気が付かないようだ。目もよく見えないようで、一寸した段差に転げる。散歩では
よろめいて倒れやっと立ち上がりまた倒れる。30分置きに泣き叫び散歩を要求するが、おしっこは身体に掛かり、大便は戻ってきて寝ながら
出してしまう。僕はそんなに犬が好きなわけではない。それでも飼い主という責任がある。孤独を紛らわせてくれた思い出がある。
神よ、もう少しミケを生かせてあげてください。今ミケがいなくなったら、確実に僕は寂しくなってしまうから。
19日
自宅の駐車場に帰ったのが夕方の5時を少し回っていた。
33のドアをロックし、ふと見ると段ボール箱が置いてあった。
ほんの少し蓋が開いて段ボール箱は動いて見えた。
「全く、誰かがゴミを捨てていったな・・・・」我が家の駐車場は蓼科の中心地”文化塔”が隣接する場所で
時折心ない人がゴミを捨てていったりしていたので、「またか・・・」と思っていた。
かすかに段ボール箱は動いた。
側に近づくと「にゃー・・・・・」恐る恐る箱を開けると、未だへその緒が付いた毛も生えていない子猫が5匹入っていた。
子供の頃から捨て猫、捨て犬を拾ってきては母親に怒られていた。
一瞬にして少年時代の僕にワープして行く。何とも言えない”嫌な”気持ちが心の中を支配して行く。
人間の”エゴ”と無責任さにホトホト腹が立つ。
箱を持って自宅に入り、緊急の家族会議が行われる。少女時代に捨て猫を拾ってきた妻は、僕と気持ちが一緒だった。
ミケがお世話になっている獣医に相談の電話を入れる。
「この後保健所に連絡するか、動物用のほ乳瓶を用意するか道は二つだと言われた」
33のドアを開け街まで行った。ほ乳瓶と猫用のミルクを買った。
約3時間おきのほ乳とペットボトルにお湯を入れタオルで撒いた暖房の交換が昼夜問わず行われる。
ミルクを作りほ乳瓶や綿棒で口元に運び、子猫の栄養を確保するも、口にしようともしない子猫がいる。
深夜、早朝、昼間・・・・来る日も来る日も・・・・「頼むから飲んでくれ・・・・」
次第に食が細い子猫と、どん欲にほ乳瓶に食いついて来る子猫の差が出てきた。
全てが生き残れる訳じゃない。
生きることを諦めるとその先は無い。
10日後の深夜一匹の子猫が動かなくなった。続けて早朝にもう一匹も冷たくなってしまった。
「もうこれ以上死なせないぞ」と思っていた。
思いは届かなかった。3匹目が死んだのは、子猫を拾って2週間が経つ頃だった。
もう悔しいとか悲しいとか思わなくなった。意地だった。
負けたくない。
最後に残った薄茶の虎が『シュウ』、真っ白いのが『クリーム』。子供達はそう名付けた。
育てていた段ボール箱が、シュウクリームの箱だった事に気づいたのは、それから少し経った時だった。
地元のコミュニティー誌に”猫もらって下さい”と広告を出したら、諏訪の女性が名乗りを上げてくれた。
家族全員でその女性を訪ね「どちらになさいます?」薄茶のシュウが引き取られて行った。
帰りの車の中で子供達が、「クリームは家で飼いたい・・・」と小さな声で言った。
続く
(だいぶ酔って来たので、今日はこの辺で)