1月10日
新年です。
一月は結構忙しい。 元旦ももちろん仕事だったし、4日まで働いて5日から僕らのお正月休みになる。
5〜7日は蓼科に行きゆっくり骨休めをした。
TAROCメンバーのYoshidaさんとAyaちゃんも同じ職業なのだが 今回休みが合ったので、ほとんど一緒に蓼科で過ごした。
僕らは同じ世代?だから、酒を飲みながらお気に入りの音楽を聴き DVDを見ながら笑ったり泣いたりしている。
蓼科から箱根に越すとき、趣味で集めたLPレコードやアナログプレーヤー、 はたまた真空管のパワーアンプ、古き良きアメリカの大型スピーカーを処分したので 今オーディオは小さなシステムで、聴くソフトもCDが多い。
LPレコードを処分したとき約300枚有った貴重なレコードもせいぜい買い取ってもらえるのは、 その中の30枚程度で、他の270枚程はゴミとして引き取られて行った。 中学時代に夢中になって聴いた拓郎やサイモン&ガーファンクルやビートルズ、ディープパープルなど 値段が付いたJAZZのレコードに比べたら”ゴミ”扱いだったので 僕は164のトランクに残っているシングル盤を密かに自宅に持ち帰り 箱詰めして引っ越しの荷物の中に紛れ込ませ、 カミさんには処分したと嘘をついた。
箱根の自宅は会社の寮に中にあって、家族4人が住むのに ほとんど限界で、そうでなくても僕の趣味の物で占領されて居る居間には 大きなオーディオやレコードなんぞ置くスペースは無い。
そこで、蓼科の”アジト”にはMEGAMIKOで使っているPAを常設して そこそこ大きな音量で音楽を楽しんでいる。
隠し持っていたシングルレコードもかけられるようにとオークションで 安価なレコードプレーヤーを購入して皆と酒を飲んでは懐かしいアイドルの曲や フォークソングを聴いては、モップをマイク代わりに歌を唄い喉を酷使している。
40にもう少しと50に届く年齢の僕たちは 若かかりし頃に起こった悲しい思い出や、恥ずかしい思い出を酒の肴に 夜も更けるのを忘れて腹の底から笑うのである。
人間に一番大事なのは、腹の底から笑うことかも・・・。(笑)

蓼科から帰って自治会の役割が待っていた。 14日に行われる「ドンド焼き」の準備だ。
昨年に引き続き僕は”おしるこ”づくりを担当する。 約150人前のおしるこを作るのは初めての経験だった。 人数分の問題ではなく、おしるこを作るのが初めてだった。
”感”だけで作ったが昨年は評判が良く、年輩者や若い世代からも「美味しい」と云われ 密かに今年のおしるこ作りを楽しみにしている。 大変なのは翌15日の自治会新年会の準備で 宴の会場は町内会に有るプリンス系のホテルで大々的に行われので 料理も酒もいただくだけだから僕は安心している。
問題は新年会の中で行われる「ビンゴ大会」の景品の準備で、 何でも調子よく引き受けてしまう僕は、 今年の景品の準備係を引き受けてしまった。
約100人分の景品を買うことがこんなにも苦悩だったなんて 正直思っていなかった。
8日子供たちの始業式が終わるのを待ち、家族で小田原のショッピングモールに出掛けた。
一人\600の予算で100人、お年寄りもいれば子供もいる、 男も女もいる。
どのような景品を用意したらいいのか、悩んでしまった。 それに\600で買える物で、誰もが貰って満足出来るような品物なんてなかなか思いつかない。
ニトリで3時間、トイザラスで2時間。 たっぷり時間をかけて、100人前ご用意いたしました。
僕はいつもこんな事をやっているんです。
今年もALFA系のイベントで頑張ります。 お会いできるのを楽しみにしています。

今年もどうぞよろしく。


13日
毎年成人式に大暴れする若者らは滅びることなく 生き延び継承されてゆく。
騒げばテレビに映り、ちょっとした思い出づくりのつもりなのだろうか?< どうやら酒を飲んで”勢い”がついている様子だ。 僕の成人式は写真だけの成人式だった。
市ヶ谷の駅前に有る”私学会館”に勤めていた僕は すでに調理師の道を歩んでいた。
事情があって大学を諦めた僕は、 これといってやりたい仕事も大きな夢も持たずに 担任の薦めで”私学研修福祉会”に就職した。
いわゆる特殊法人で、文部省の管轄に入る財団法人だ。 私立幼稚園連盟から私立大学連盟までの部門があり 日本全国の私学へ補助金を振り分け配給する機関で 建物の中には私立関係の方々や一般の方にも使ってもらえる 結婚式場・宴会場・宿泊施設・レストランなどの飲食部門の施設が整っている。
入社して一年は、それこそ色々な部署に研修配属される。
その中に調理場は含まれない。 調理師は専門的な職業で、ほとんどが”希望者”による採用で賄われていた。
僕たちは事務やサービスなどの接客を教え込まれ、3年もすると立派な職業知識を持ち 大体は何処へ行っても通用する”プロ”になり、町場のホテルやレストランに 上質な仕事を求め巣立ってゆく者も多い。
一年間の研修が終わると芽が出そうな者を狙って各部署の部長連中が根回しをし、 辞令の発令を人事部に要求する。
僕は営業2課から声をかけられた。結婚式が主で、週末は死ぬほど忙しい所だ。 仕事に対して特に生き甲斐も興味も無く、当時つき合っていた同期の女の子と 同棲をする事が一番の望みだったような頃で、 借りていたアパートのそばには”神田川”が流れていて、 まるで歌のような別れ方も経験した時代だった。
配属が決まり少し社会人らしくなってきた頃だった、 従業員食堂で遅い昼食を食べていた僕の前に調理課の部長が座った。
総料理長だ。
入社式の時にお顔を一度拝見しただけで、僕には遙か遠い存在の方で 少し緊張して『おはようございます』と挨拶をした。
芸能界や水商売など、何時で有ろうと挨拶は『おはようございます』だ。 放送局もそうで、僕はいつでも『おはようございます』が身についてしまった。 時々子供たちが不思議がるがそのうち解るだろう。
総料理長は眼鏡の奥から鋭い眼差しで『おまえは何処の課だ』と聴いてきた。 『はい、営業2課です』
そこから話は続かなかったが、食事を済ませ席を立とうとすると
『おまえ、調理課に来い』と言い渡された。
僕は調理師になる気が無いことや、向いていない事も説明して 『失礼します』と言って席を立った。
一月ほどして、そんなことは忘れていたが、人事部長から呼ばれて辞令を渡された。 そこには「調理課勤務を命ず」とあった。
僕は、大きなショックを受けた。
退職の二文字も脳裏をかすめた。
調理課には50人以上のの調理師がいて、ベーカーリー(パテシェ兼)和食、洋食の3部門があった。 各部門には料理長がいてその上に総料理長がいる。
見事なピラミッド型権力世界が出来ていて、底辺付近で働く者には人権など無い時代だった。 だからその辞令は”死”を宣告されたようで、僕のか弱い肩にのしかかってきた。 明日から調理課という日の夕方、調理課の皆さんに挨拶をして回った。
僕は洋食の厨房で新たなスタートを切ることになっていた。 洋食の料理長に連れられて、とにかく頭を下げ『よろしくお願いします』と言い続けながら館内を回った。 洋食の副料理長は怖い人だった。 いつも不機嫌で、ブツブツ言いながら歩いている人だった。 その副料理長から「明日は、8時出勤だ」と言われた。
僕のすぐ上の先輩からは、「8時じゃ遅い、6時には出勤してろよ」と釘を刺された。



その夜同期の仲間が壮行会を催してくれた。 何件の居酒屋を回ったのだろう・・・
気がついたら朝だった。
僕のアパートに数人の男女がごろ寝になっていた。 時計を見ると8時を少し過ぎていた。 当時僕の部屋には電話が無く、表通りに出てBOXから電話をかけた。 調理場に電話をつなげて貰ったら副料理長がでた。
「すいません、寝坊しました」
「もう来なくていい・・・」
会話はそれだけでした。
青梅街道でタクシーを拾い「市ヶ谷まで・・・急いでください」
「今日から調理場で働く事になったのですが、寝坊して遅刻してしまいました。
電話をしたら、『来なくていい』と言われちゃいました・・・」
運転手さんは「それでも行くの?」
「はい」
その後運転手さんは凄い運転を披露してくれました。 信号無視、反対車線走行・・・・もう閉口ものです。 その甲斐あって相当早く市ヶ谷に到着です。
僕がお金を払おうとしたら運転手さんが
「お前は今日から信用が無い状況で誰も味方がいないところで頑張るんだ 料金はいらない。俺からの餞別だ、俺がお前の味方だ。頑張ってこい」
そう言いました。
僕の心の中で”何か”のスイッチが入りました。
自分でも解らない強い意志でした。
「負けない」
そう思うだけでした。
その日は、もちろん辛かった一日でしたが何も出来ない一日でも有りました。 これ以上ない最悪のスタートです。
それから半年ほどは、誰もまともに口を利いてはくれませんでした。 僕は毎日鍋洗いと先輩の靴や靴下を洗い。(もちろん手で洗う) 手の皮が剥けて、洗剤負けして赤くただれてきます。
夏は暑さと湿気で知らないうちに鼻血が出ていたり。 朝は5時30分から夜11時まで働き詰めです。
食事の時間は5分間。 先輩方に「食事いただきます」と一々言って回り 戻っては「戻りました」と報告するのが義務づけられています。
一階から地下の食堂に行って5分で挨拶も済ませないと 殴られる事も有りました。
それでも、「飯食ってこい」と言われない日もありましたから 殴られても食えるだけで幸せです。 洗い物以外にもランチタイムの”飯炊き”という重要な仕事も有ります。
米研ぎは機械がやります。 一釜二升五合を炊くのですが、一度に三釜しか炊けません。 一釜で約五十人前です。
保温設備が無いので、炊き出し開始は11時からと厳しく言われています。 館内全てのご飯は僕が炊くことになるのです。 宴会場は百名単位のランチが入っています。 レストランのご飯も時には足りなくなります。
12時30分頃は洗い物と炊き出しで僕はパニックになります。
ご飯が足りなくなった日は、レストランの厨房の廊下に立たされます。 散々叱られて終いには殴られます。 当時一緒に暮らしていた彼女の前で殴られ、僕は惨めさと悔しさとやり場の無い怒りを感じていきます。 それ以外の重要な仕事に先輩方の朝食の用意が有ります。 全て任されますが、今までろくに料理をして来なかった者が プロに食べさせる朝食を作るのです。
僕は本屋に行って”田村魚菜おかず百選”と云う本を13.000円で購入します。
散々悩んで、意を決して作った料理を先輩方は箸も付けづにゴミ箱に捨てます。 悔しさで涙が出ますが、今思えば当たりえです。 朝から天ぷらを揚げたり、カツを揚げているのですから。(笑)


レストランの中堅で腕のいい藤岡さんと呑む機会が有りました。
藤岡さんの部屋にお邪魔するとギターあり、ジェフ・ベックが好きで得意げに弾いてくれました。 調理場の先輩とこんなに話をした事が初めてだったので、 僕にとっては夢のような時間でした。
当時僕はドラムを叩いていて、素人に毛が生えたようなバンドを組んでいました。
それでも本当に偶然ですが、おかしな事に某有名女性ロックシンガーのバックでドラムを演奏したことも有りました。 そんなことから、藤岡さんと話が合う事が嬉しくて 仕事が辛くても「頑張れ」と小さな声で言ってくれるのが嬉しくて 不思議に頑張れるのでした。
そんな藤岡さんからこんな事を言われました。
「上に上がれたければ、オムレツを覚えろ」
レストランに配属されれば辛い洗い物と飯炊きから卒業出来ます。 レストランは宿泊客の朝食を提供する所です。 ”朝飯”というシフトが有り、朝食を一人でこなしランチが終わって一段落すると帰れるのです。 でも、朝飯のシフトを得るには、総料理長から認められ尚かつオムレツを作れなければ話になりません。 藤岡さんは仕事が終わったレストランの厨房でオムレツの作り方を教えてくれました。
来る日も来る日もひたすらフライパンを右の拳で叩きます。
一人厨房に残り一晩で160個の卵を使ったことも有りました。
卵を食べ過ぎてモドシたり。
家に持って帰って食べ続けたり・・・


成人式の日、僕はいつものように調理場で洗い物です。
同期の連中は休みが貰えて、式典に出席したり、仲間で盛り上がったり。 夕方仕事が一段落したら、総料理長が部屋から出てきて 「外舘、着替えてレストランに行け」と言いました。
訳が解らなくて僕は言われるままに私服に着替えレストランの隅の席に座りました。 しばらくしてポタージュスープが出てきました。
調理場で総料理長が僕の為に、僕の成人の祝いに料理を作ってくださったのです。
メインディッシュはサーロインステーキでした。
初めて食べたサーロインステーキでした。
美味しすぎて、嬉しくて涙が自然に流れて来ました。


時々、総料理長は夕食を僕に作らせる時が有りました。
ほとんどは、『レストランに行って○○を貰って来い』と言うだけで 実際には僕が作る事は有りません。
そんなある日、僕は一大決心をします。 少し自信が付いてきた”オムレツ”も作って持っていこう、と考えました。 何度か作って、”会心”の作が出来ました。
総料理長の部屋に持っていきます。
「お待たせしました」
僕の心臓はバクバクです。
しばらくして総料理長の部屋のドアが開きました。
「外舘、来い」
「誰が作った?」
「自分です」
「・・・・」
数日後、レストランの料理長から「明日から”朝飯”の仕事を覚えろ」と言われました。
その日から、洗い場とレストランの両方を掛け持ちする忙しい日々が続きましたが ”認められる”充実感で僕は満たされました。 社会人になると云う事は、誰かに認められると云う事なのかも知れません。 ”責任””信用” 新社会人の皆さん、くじけても良いじゃない、一生懸命生きましょう。


25日
今夜は、出会いと別れのお話です。新入社員の時から僕を可愛がってくださった方がおりました。 営業2課の主任で藤永さんといいました。藤永さんは僕より一回り以上も年上で、フロアの責任者”黒服”でした。
どちらかと言うと不器用な方で、とっくに課長代理あたりになってもおかしくない年齢で、無口で元プロ野球選手の江夏と堀内を 足したような顔をしていました。長嶋が好きで引退試合の中継を見ながら号泣していたのを思い出します。
酒を飲むと少しは喋りますが、いつも僕の方が喋り続けては「男は黙って呑め」と嗜まれました。中央線武蔵境の駅から 少し歩くと藤永さんのアパートで物が少なく整理整頓はキチッとしてあって、独身の男の部屋と思えないほど小綺麗な部屋に いつも関心していました。僕ら数人の部下を連れて会社のそばの居酒屋に繰り出すのですが、何処の店に行っても藤永さんは 店の方から好かれていて、僕らもそんな藤永さんが好きでした。ある日しこたま呑んで翌日の仕事でミスをしたことがあります。 翌日の宴会場の準備をしていたときラックに収まったワイングラス36個を割ってしまいます。
大きな音で周囲から人が集まって来て、先輩達に怒られました。ひどい二日酔いで、ボーっとしていた自分に非がありました。 ワインラックを片づけようとしたら藤永さんがやってきて「外舘が割ったのか?」と聞いてきました。「はい・・・」
先輩から「二日酔いで仕事なんかしているからだ」と怒られました。藤永さんは落ちていたワインラックを持ち上げ、 もう一度床に落としました。「こいつに酒を飲ませたのは俺だ、俺にも責任がある」と言い、課長に提出する始末書も 藤永さんが書きました。僕は何も言えず割れたワイングラスを片づけ、その日の退社の時、藤永さんに謝りました。 藤永さんは、「呑みに行くか?」と少し笑顔で言い、いつも居酒屋に向かいました。
例の遅刻した時も藤永さんと呑んでいました。(笑)

ある日アパートに藤永さんが訪ねて来ました。僕のアパートは新中野という所です。 相当呑んでいるようで、「今夜泊めろ」と言って持ってきた酒を出して「お前も呑め」と部屋に入って来ました。 こんな事は時々あって、明け方まで酒盛りは続きます。藤永さんは突然こんな事を言いました。 「お前の同期の西村には、つき合ってる奴はいるのか?」
「どうしたんです?」
「男はいるのか?」
「いないと思いますけど」
西村は僕の同期で鹿児島出身の美人でした。女子寮に住んでいて、時々みんなで呑んでは家に泊まりに来ている親しい仲でした。 不思議な子で、美人なんだけれど女性を感じさせない子でした。寝ている僕の上をまたいで”おなら”をしたことがあって 「お前、”へぇ”こくな!」と僕が言うと、もう一発だして「ごめん遊ばせ」等と言って笑っている子でした。
藤永さんは「西村に電話して、つき合っている奴がいるか聞け」と言いだし、「もう遅いから・・・」と窘めても聞き入れてくれません。 結局電話して藤永さんは納得しましたが、藤永さんは電話口には出ようともしません。翌日西村には藤永さんが聞いてきたことや 昨夜の話を伝えましたが、西村にはその気は無く、少し気まずい思いをしました。

こんな事がありました。 その日も藤永さんは酔っていました。家に来て「西村を呼びだしてくれ」と言い、「あいつが好きだ」と小さな声で切り出しました。 僕は女子寮に電話して西村を呼び出しました。タクシーで来た西村は一寸迷惑そうでしたが、その日は数人の女の子も交え いつものように酒を呑み我が家に泊まります。藤永さんは何も言えず、いつも黙っているだけです。
そんな一途で不器用な藤永さんは離婚経験者でした、一度結婚に失敗して臆病になっている事や、相手に気持ちを伝える術を 知らない等と、僕と呑んでいるときには辛い気持ちをよく話してくれました。僕は何とかしたいと思いながら、西村と一緒に 酒を呑む機会を作ってあげていました。しばらく経った日、藤永さんが「呑むか?」と訪ねて来ました。珍しくまだ呑んでいない ようです。藤永さんの後ろには西村が立っていました。二人は照れくさそうに笑っています。僕は「呑みましょう」と言い 二人を招き入れました。二人の交際は順調に続き、藤永さんとも酒を呑む機会が減ってゆきました。色々あって僕は会社を辞める ことになりました。それから数年経って、二人が結婚するという知らせを聞きました。本郷の小さな旅館で披露宴をするから 来いとの知らせでした。久しぶりに逢った二人は幸せそうな顔をしていて、眉毛が垂れていた藤永さんは、益々垂れて 嬉しそうな顔をしたいました。藤永さんには居酒屋をやりたいという夢があって、結婚を機にアパートの近所で居酒屋を 開店します。全く料理の出来ない藤永さんの度胸に驚くと同時に、いつも強引な藤永さんに呆れます。
「外舘、料理教えてくれ」オープンまで10日程しかない時に冗談みたいな事を言って来ます。当時僕は川崎のアパートの住んで いました。調理師としては未だ半人前でしたが、それでも少しは”らしく”なって来ていたし、何よりも二人の力に成れればいいと 仕事が終わったら藤永さんの店に通う日が続きました。開店の日、客は一人しか来ませんでした。一週間経ってもあまり 変わりはありませんでした。住宅街の立地の悪い条件でしたが、藤永さんの無愛想さも悪い条件の一つです。(笑)一年くらい経った 時、店をたたんで藤永さんの実家の長崎に帰る事になったと手紙を貰いました。藤永さんのお父さんが亡くなって、お母さんと一緒に 暮らすことや居酒屋は結局駄目だったこと、僕に迷惑かけたねとか、東京の暮らしにピリオドを打つ決心が書かれた手紙でした。
僕は横浜のホテルに勤めて忙しい日々を送っていました。少しは仕事も出来るようになり、調理師という仕事はいつしか自分の 天職だと思うようになってきました。僕は長野に行き蓼科の”ホテル・ハイジ”で働き始めます。TAROCのYoshidaさんとの出会いや、 やがて妻になる美恵子ちゃんとも知り合います。蓼科に来て8年が経った年に、原村の別荘地にフランス料理の店を開店する事に なりました。
少ない予算で開店する為、準備に追われる日々が続きました。藤永さんの居酒屋を思いだしていました。食器や道具の買い出し 食材を仕入れる業者の選択。開店3日前の夜、友達から電話があり「昨日、藤永さんが亡くなった・・・」と聞かされます。 突然死でした。開店前の忙しい時で、葬儀には出席出来ませんでした。

数日が経ったある日、西村から手紙を貰いました。藤永さんはいつも酒を呑むと僕の話をしていたそうです。女の子が二人出来て 下の子は未だ産まれたばかりです。長崎に戻った二人にも色々な事が有ったんだと書かれていました。僕の店もそれなりに順調に なってきて、週末の休みに四日市から通って手伝ってくれて、支えてくれた美恵子ちゃんと結婚する事になりました。 当時彼女は未だ音大生の4年生で式は2月でしたから卒業前でした。僕らは自分たちの店で披露宴をして、式は富士見高原の 教会で行いました。媒酌人はYoshidaさんご夫婦です。料理や引き出物など全て二人で用意をし、ウェディングケーキや 当日の厨房は僕の先輩(ホテルハイジの元料理長)や友人達が力を貸してくれて、思い出深い結婚式になりました。
2月の暇な時期に式を挙げた僕たちは、新婚旅行をどうするか考えていませんでしたが、卒業試験前に学校が休みになったので ”長崎に行く”決心をします。カミさんには藤永さんの事を時々話していたので、是非そうしたいと言ってくれました。 僕らはスパイクタイアを履いたVW GOLFディーゼルで長崎を目指します。宿泊地を決めず行けるところまで行きます。 西村に新婚旅行は長崎に行き墓参りがしたいと言うと、泊まっていって欲しいと言われ長野を出発した翌日、長崎に 着きました。出迎えてくれた子供達は、目元が藤永さんそっくりでした。その晩は、用意してくれた 豪勢な料理をいただき、藤永さんの思い出話でにぎやかな夜になりました。西村は「不幸だとは思わないけど、悔やまれる事がある」 と言って悲しそうな目をし、無くなった日の事を話してくれました。その日は、熊本まで出張で朝早く自宅を出たそうです。 前の晩、些細な事で夫婦喧嘩になったそうです。長崎に来てからは、夫婦喧嘩の回数も増えたと言ってました。朝、藤永さんが 出て行く時、西村は布団の中で目は覚めていたらしいです。でも喧嘩の事も有ったので、見送ることは、しなかったし「行ってらっしゃい」 と声をかける事も無かったそうです。車の運転をしない藤永さんは、熊本の街を歩いていて、突然倒れそのまま息を引き取ったそうです。 なぜ朝見送って「行ってらっしゃい」が言えなかったのか、そればかり悔やんでました。僕も店を開店させた事を報告して、 喜んでもらいたかった・・・・
人生は後悔ばかりです。人に出会う時は必然のようですが、別れは突然やって来ることがあります。 この先僕は、いくつもの後悔をすると思いますが、出会った事に後悔はしません。出会えて良かったと思うだけです。


27日
重い話が続きました。軽い話で笑ってください。僕は密かに『オープンに乗るんだったら、冬がいい』と思っていたら 昨日発売のカー・マガジンの巻頭特集が『オープンカーのエクスタシー』だったので、楽しく読めた。
ここのところ僕は週1〜2回のペースでミジェットに乗って遊んでいる。子供が友達の家に遊びに行くとき、ちょっとコンビニに用が あるとき、箱根を一週したいとき、仕事がいやになって逃げ出したいとき、カミさんに怒られてムシャクシャしたとき・・・・ 万能選手です。オープンカーって奴は。流して良し、攻めて良し、佇んで良し!
しかし、先日チョイ乗りをしたくてミジェットに乗り込みキーをひねったら、初めは回っていたセルモーターが突然 ウンともスンとも言わなくなった。そのうちバッテリーも弱音をあげそうになってきたので、充電を開始して、 その日は諦めて翌日またトライしたけどやっぱり動かない。そろそろセルモーターとオルタネーターのリフレッシュを 考えていたので、財布の中身と相談しとりあえずセルモーターの価格を調べたりしていたが、いつもGS”相模屋”さんに行った ときに、鈴木さんに相談してみた。「それは、モーターが噛んでいるんだよ、3速辺りに入れて一寸押してごらん」とアドバイス をいただきました。早速実行してみると”ブルルンッ”掛かりました。見事に!
あまり旧車経験が無い僕は、そんなことも知らなかったんですね。セルモーターのトラブルってほとんど経験が有りません でした。その日は、長い時間アイドリングをしてあげて、チョークワイヤーの調節やキャブの調節をしてエンジンを切りました。 走らなくても満足できた時間でした。その車の為にしてやれる事はやっておく。いつか訪れるトラブルの為に体験しておくって 必要ですね。

お金があったら、ジュリエッタ・スパイダーが欲しい。デュエットもいい。とにかくALFAのオープンが欲しい。 スーパー乗りの”きみちゃん”は毎年春先になるとオープンが欲しくなる病気にかかっている。
今年辺りデュエットを買うんじゃないか?などと、僕らの間では、そんな噂もたっているが、古いALFAを二台も維持できない といつもこぼしているし、かといってお気に入りのスーパーを手放す事など出来ない。自動車好きは常に悩みを持ち続けて 成長して行く。いや、病気が悪化して行く。
あなた、もしオープンカーを買うとしたら、何を選びます?僕、4台ほど挙げときますね。
スーパーセブン、カニ目、ジュリエッタ・スパイダー、デュエットです。 全然違うタイプばかりですよね。買えないだろうけど、いつも欲しいと思い続けている車達です。そして、ガレージも欲しいですよね。 僕のイメージする夢のガレージは、煉瓦か角ログで、やっぱ2台は余裕で納められるスペースが欲しい。 大きな窓ガラスで仕切られているオーディオルーム兼ミニカールームがあって、大好きな物に囲まれて・・・・
夜、布団に入ると枕元のスタンドを点けて、古い自動車の本やガレージ特集を読みあさる、これが僕の一日の終わりにする日課です。 今夜も小さな灯りの下で、大きな夢を見るのでした。
おやすみなさい

30日
オープンカーがいい、なんて言っていた翌日。デジカメ持って、目に映る面白い物何でも撮ってやろうなんて 思っていたら、凄いのが飛び込んできた。 いつものように買いだしで御殿場のスーパーマーケット”Aoki”に行き、仕事の相棒車キャラバンに荷物を積んで、「さあ帰ろう」と 思ったら、”ババババババババッ”って地下の駐車場にエグゾーストが響くじゃ無いですか。さっと停車すると、長身に細身の紳士が 片手に”資源回収ゴミ”を小粋に下げて、車のドアをまたいで降りてきます。一連の動作があまりに決まっていたので、不覚にも僕は 声を掛けられずにおりました。(笑)『むむ、これは”ろーたす”かぁ?しかも”いれぶん”?』こりゃ本人に聞いちゃえてんで、 後を追い、再び店内へ。いたいた、フルーツ売場でパイナップル見てる。
「あのぉ、こんにちは、先ほど駐車場で拝見したのですが、 凄いお車ですね。ロータスですか?11ですよね?・・・・」
「はぁ、あれはレプリカです」
「そうなんですか?エンジンは何ですか?」
「ミニやミジェットと同じ物です」
「A型ですね?1300ですか?」
「そうです」
「すいません、写真撮らせてもらっていいですか?」
「どうぞどうぞ」
と言うやりとりのあと、僕は持っていたデジカメで激写するのでした。 リアビューとか、凄すぎるね。スーパージェッターの流星号みたい。実はね、この方時々見かけるのよ。電気屋さんとか薬局とか 普段の足車にされているみたい。今回もさりげなくネギや豆腐買って、風の様に消えて行きました。カッコいいね。もう僕なんか 足下に及ばない。(笑)オープンカーでレプリカとはいえ、ロータス11をチャリンコの様に使いこなしている。御殿場界隈には 凄い人たちが住んでいます。 AUTO.SPECやいつものGSでこの話したら、やっぱみんな何度も目撃していて『怪しいね』なんて思っていたんです。コクピット 見てください。ほこりも凄いけど皮のシートなんかも、擦れていい感じになってます。助手席に灯油のポリタンクが 置いてあったけど、まさか・・・”予備タン?”じゃないよね。きっと、お家で使う灯油を買いに行くのね。 排気音は意外におとなしくて、見た目の凄味とは裏腹に静かめでした。この車、”コッパ・デ・小海”に出たら、普通に 走っちゃうんだろうな。だって普段足ぐるまになっているんだもの。へたすりゃ”雪道”だって走っちゃうかも。 またいつか逢ったら、情報収集できるかしら。
話は変わり、いつものスーパー”Aoki”さんで、ちょっと面白い物を見つけましたので、みなさんに紹介しちゃいますね。 知ってます?九州名物”白くま”っていうアイスクリームです。パイナップルとか入っているらしくて、僕の職場の 女性達は知ってましたよ。美味しいらしい。残念ながら僕は食べてはいないんですが、今度子供達と買って食べて見よう。 アイスと言えば、僕が昔填っていたのが”ビエネッタ”っていうチョコレートが掛かったバニラアイス。フリフリに薄く 掛かったチョコが美味しいんです。それと、”雪見だいふく”、これも美味しいね。堅いと食感がイマイチだから、少し 溶かして柔らかくしていただきます。甘い物の後は、これ。 ”食べる唐辛子ふりかけ”カプサイシンいっぱい。もちろん辛いけど、凄く辛い訳じゃないんです。甘みもあって うまみもちゃんとあるんです。これだと白いご飯がさらに美味しくなっちゃうんですね。ご飯好きの頼もしい味方。 ご飯だけじゃ無く、そばやうどん、ペペロンチーノにもいいのよ。オリーブオイルを入れたフライパンに スライスしたニンニクを入れて、香りがでたらパスタとゆで汁、そしてこのふりかけを入れる。抜群に旨いです。 やってみてください。お子ちゃまには辛いから、かつおのふりかけがいいね!
次は、カインズホームで見つけた物。”水コンロ”。最近我が家が填っている調理器具。炭を入れて焼き物や鍋を乗っけて コンロにも使えます。みそは二重構造になった下層部分に水を入れておきます。 焼き肉なんかやってもやたらと煙が出ることも無く、美味しい焼き物が出来ます。シシャモを焼いて、 日本酒なんかだと雰囲気ばっちり。我が家が使っているのは『陶器』で出来ている水コンロですが、今回見つけたのは 金属製でした。価格は\1.980-、激安です。火鉢や囲炉裏感覚ですね。僕は初めての一人暮らしの時、自炊はもっぱら 飯盒(ハンゴウ)炊飯だったんです。もちろん庭先でたき火してご飯炊くのですが、よく大家さんや近所の人に怒られて おりました。今思えば、無茶な奴でした。反省。